勝手に個人的映画評論 (ほぼ感想) 2005年度 

「Crash-Contatto Fisico」 2004 USA  Paul Haggis *Contatto fisico(身体的接触)という帯がわざわざ付いているのは、LAは車社会なので人々は身体的接触を持つことが非常に少ない ことに由来しているそうだ。

この映画は久しぶりに私を驚かせてくれた。聞いたことのない監督、いまひとつ知名度が低い目ただない俳優達、地味な3流映画かと思いきや、またしても人種差別意識の強いアメリカのかの地、ロサンゼルスを舞台に、差別が呼び起こす憎しみ-憎しみから生まれる暴力(あるいは恐怖)- その対抗図式として 人情-愛-奇跡 が用意されており、そこから救われる者と救われない者が 浮き彫りにされてくる。ただし、善人がいつでも救われるとは限らない事実まで容赦なく、いつもの押し付けがましいアメリカ的正義と勝利が映画の終焉を飾るわけでもなかったところが良かった。


「Niente Da Nascondere」 (Caché) 2005 Michael Hanke / D.Auteuil J. Binoche

観に行ったのは、たまにお洒落なフランス映画が観たかったからだった。が大きな間違いだった。ストーリーはいわゆるGiallo サスペンス推理物的な形を取っているが 観客は主人公が隠している過去について最後まではっきりわからないままである。この様な形式は「Brow Up」などを思い起こさせる。映画が最後まで核心に触れないという点においてである。が、この映画においてそのことが感動につながらないのは、人間が何かを隠すときの傑作な醜態が露骨に出ているせいだろうか?なにやら不愉快な映画だった。




「Boken Flowers」 2005 Jim Jamusch / Bill Murray

ちょっとした俳優を使い、なにげない映画を作るのが上手なジムジャームッシュ。結局最後までストーリーが核心に触れないという点では上記と共通するが、(主人公は息子が誰で、その母親が誰なのか結局分からないままである)にもかかわらず、後味が良いのは、全くニヒルでドンファンなこの男の人生に、何かしらの意味、存在意義を与えてやったところにあるのだろうか。少し単調な車での旅のシーンはいただけないが、ヴァイオレンスの多い最近の映画の中でほっとする、笑いを誘う ほのぼの感が人々に受け入れられたのだろう。というのもロングランしているから。



「Il Sole」 2005 Aleksandr Sokurov イッセイオガタのまるで一人芝居の様なロシア映画。1945年戦争が終結する数日間の昭和天皇の実生活を淡々と追ったもの。まるで密室劇のようでまったりした時間の流れは、荘厳と言うよりは単調、滑稽と言うよりは健気な天皇の人間像が、おそらく研究熱心なイッセイオガタによってよく表現されていた。最後のワンカットだけこの映画でただ一人の女性(モモイカオリ)が登場するが、非常に地味な、映像に軽く美意識のある、起承転結のない映画だった。



「Truman Capote A Sangue Freddo」 2005 Bennett Miller / Philip.S.Hoffman


どうして伝記物の映画はいつもいまひとつ面白くないのだろう。ピカソ、マリア・カラス、バスキア   色々観ているがつまるところ有名俳優がいかに歴史上の人物に似せられるか、というところで終ってしまい、ストーリーがあまり練りこまれていないことが多い。そんな中でフェリーニの「カサノバ」や「アマデウス」ことモーツアルトは好例だったといえるだろう。実際ホッフマンはすばらしい俳優だと思うし、彼はカポーティーに本当によく近づいたのだろうと思うが、それだけ。なんとも残念な気がする。



「La Samaritana」 2005 Kim-Ki-Duk


非常に厳しい映画で、ゾッとする内容。ここ10数年の間に日本で始まった10代の女子の道徳意識に対して、一種の警告を発している。というのも、全く意識しないで行動する2人の女子中学生に降りかかるのが、まるで天罰のような結末を呼び起こしているからだ。一人は命を落とし、一人は唯一の肉親を失う。にもかかわらず全く無垢であり続ける主人公らに人々は衝撃を受けざる負えない。韓国映画だが、現代の日本との類似にも驚いた。



「Il Grande Silenzio」 2005 Philip Groning


この映画を見に行ったのは、映画そのものに引かれたのではなく、(内容は予想できるものだったので)会話のほとんどないこの映画が、同時期の「ハーリーポーター」よりも人が入って大当たりだったという記事を読んだからである。いかにも地味そうな映画に、人々はなぜ引かれたのだろうか? 内容は、フランスのどこか山奥の修道院にひっそり暮らす修道士たちの生活を、淡々と紡いだものである。監督はそこで生活を共にし、詩的に芸術的視点で季節を追ったドキュメンタリーなので、ストーリーは初めも終わりもない、全く物語性を持たない映画である。この「大いなる静寂」の中で気になってくるのは、音である。無言で歩く修道士たちの白い服布がすれる音、ドアの音、椅子のきしみ、布を切る、薪を割る、セロリを切る、雪を掻く、賛美歌の響き、本のページをめくる音、聖水に触れる音、風、雨、食事のとき皿にかすかにフォークが当たる音。私の隣で同じ映画をオペラグラスで見ているお婆さんの音まで、よく聞こえる始末だった。 現代の生活の中で麻痺している私たちの五感を呼び覚ましてくれた。ただし、前半までである。後半からこの単調な繰り返しは別の感まで呼び起こしてくれた。眠気である。すでに後方でいびきをかいている男性がいる。私もうとうとしてしまった。私の個人的な見解でこの映画を括るのであれば、年老いた誰かが神に召されるまで待つべきであった。しかし映画はそのままぼんやりと終わってしまう。これでいいのであろうか?多分いいのであろう。。


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