真紅の薔薇

12 月 25 日、ちょうど 12 時 30 分をまわったところだ。 イタリア中の食卓が一年のうちで最も贅沢に賑わうこの瞬間に、ミラはラジオをつけた。戦後の 貧しい時代、一年に一度のナターレ(クリスマス)に子供たちに美味しいものを食べさせようと、 手長海老、サーモン、アラゴスタなどの高価な魚介食材を「分割払いで」購入し、出稼ぎから帰 って来たある男が、ちょうど駅のプラットホームに降り立った。というストーリーが展開されて いるところだった。 ラジオなので、効果音としてプラットホームを思わせる蒸気の煙る音や喧騒、駅構内のアナウン スがエコーとなりバックに流れ、ミラは昨年の霧がかる夜のナターレ、ミラノ中央駅にある男を 見送りに行ったことを思い出した。


彼に初めて会ったのは、そこからさらに 4 年ほど前に遡った 2009 年暮、ヴィジリア(クリスマス イブ)であった。年号をはっきり思い出すために、ミラはハイチで起きた大震災の正確な年号を 調べなければならなかった。2010 年 1 月 12 日。何故なら彼は、ミラと出会った約2週間後にハ イチの震災の取材に旅立つからである。 ミラはこの頃まだフォトレポルタージュに従事していた。探求していたという方が妥当だろう。 日本にいた頃からずっと写真について考えてきた彼女にとって、最も謎の写真分野がこのフォト レポルタージュというもので、イタリアで初めてその存在を意識せざる負えなくなった。それは ジャーナリズムの中で扱われる写真ではあるが、何かもっと深いものだった。毎日の新聞に出る タイムリーな時事事変を映し出した見出しの写真とは違い、語るべき様々な状況の中に入り込ん で内側から時間をかけて撮り集めた真実のストーリーであり、使うフィルターは Etica(倫理と道 徳)である。分かりやすくいえば、人間、引いては人類のあり方を問いかけるような写真をフォ トレポルタージュというのではないか、とミラは考えていた。 誰が何故、何のために、どうやって、又はどのような信念を持って撮るのか。一線で活躍してい るフォトジャーナリストに近づくことは、ミラにとって其の謎を解く一つの鍵となる可能性を秘 めていた。人が苦しんでいる姿や血なまぐさい風景、どんな困難な状況や悲劇もカメラに収める ことのできる彼らは、きっと普通の人間ではないのではないかと思っていた。意外と知られてい ない事実だが、優れたイタリア人フォトジャーナリストは多い。国際的な賞を取っている者も沢 山いる。約 6 年前のヴィジリアに出会った男マルコも、其の様なフォトジャーナリストのうちの 一人であった。 マルコは、ミラが友達申請したとき FB を通して話しかけてきた。後に人づてに聞いたうわさによ れば、彼はかなりの遊び人で女たらしであり、ミラは彼の対応の仕方から既にそれを察すること ができた。ミラとしては一線のフォトジャーナリストがどんな人種なのか知るいい機会であった。 そのため、ある程度のリスクは背負おうと思っていたのだ。 「僕はローマに住んでいる。が、ナターレにはミラノの実家に帰る。機会があれば会おう」 と彼は電話番号を添えて書いてきた。ミラはそれを覚えていて、半年後ナターレ近くになったと き彼に SMS を送り、其の約束が果たされるか尋ねてみた。彼は初めミラとのやり取りなど忘れて いたかのようだった。しかしそのことを上手く隠し、つまらない日常に思いもよらず入り込んで くるハプニングを楽しむかのように、24 日ヴィジリアの昼前にサンバビラで落ち合う約束をした。 当日ミラは其の約束の時間に20分遅れた。普段ありえないことだが、彼女はその日がヴィジリ アであることを全く計算に入れてなかった。街は当日でもプレゼントを買うために右往左往する 車でごった返しており、交通機関はどこも麻痺していたのだ。マルコは約束の時間 5 分前に電話 してきた。ミラがまだコリエレ本社前*で乗り換えのバスを待っていると知ると、あからさまに 機嫌が悪くなった。初めて聞いた電話越しの声はミラに短気な印象を与えた。彼女がどこかのバ ールに入って待っていて欲しいと告げると、マルコはサンバビラ広場にある Victor というバール を指定して電話を切った。 数日前に降った大雪で大理石の歩道は濡れていて滑りやすかった。人を掻き分け、サンバビラの アーケードを藤色のゴム長靴でほぼ走っていたミラは、左手に見えた Victor という看板の前で立 ち止まった。看板の下は確かにバールの入口のようだったが、中は真っ暗闇で とても営業して いるようには見えなかった。ミラはさらにガラス越しに手をかざして中をのぞいたが、暗い店内 は全く人気がなかった。ミラは通りの右を、次に左を見てもう一度バールの入口上部にある看板 を仰ぎ、書いてあるイタリック体の文字 Victor を読み直した。そして思い切って其のドアを強く 押し中に入った。ドアは重かったが鍵はかかっていなかった。本当に彼が其の暗闇の中に座って いても不思議ではないような気がした。 ミラはよく見えない店内奥まで歩いていって誰もいないのを確認すると、明かりの見える調理場 のようなところに入ろうと階段を上がり始めた。其のとき不意に背後から窓を強くたたく音がし た。振り返ると入口の窓ガラスに、先ほどのミラと同じように手をかざして中を見ようとしてい る大きな男の影が見えた。ミラはゆっくり戻り其のドアを開けた。 「Victor だったわよね?」 「ああそうだ。が、変えたんだ。あっちへ行こう」 ミラは彼が促す方角へ一緒に歩き出した。挨拶を交わさずともその男がマルコであることは明ら かだった。勤めて怒りを抑えている様子だったからだ。彼はグレーの毛糸の帽子を深くかぶり、 黒のハーフコートに限りなく赤に近いボルドー色のパシミアのシャルパを巻いていて、エレガン トな印象を受けた。背がとても高く体が大きかったので、ミラは仰ぐように見上げながら言い訳 をした。 「ごめんなさい。でも今日は 24 日ヴィジリア。あなたは知らないかもしれないけど街中の交通機 関は大混雑だったの。ここまで来るのに 1 時間以上かかるなんて・・」 「そうだろうね。でも僕にはもう 40 分しか残っていないんだ。他の約束があるんだよ」 彼はいかにも残念そうな言い方をしたが、ミラは笑顔でこう切り替えした。 「構わないわ。40 分あればコーヒーくらい飲めるもの」 ミラは歩きながら、頭の中で状況を整理した。そして彼が真後ろの死角からタバコを吸いながら ミラの行動を逐一見ていたことを悟った。遅れてきた罰として閉まっているバールを指定し、ミ ラがどのような行動をとるか後ろで観察していたのだ。女として魅力があるか吟味もしていた。 気に入らなければそのまま放って立ち去ろうと考えていたに違いない。 「あなたはよくこの大渋滞の中 時間通りにたどり着けたわね」 「僕の実家はこの先のピアッツア・トウリコローレにあるんだよ。すぐ近くなんだ」 ミラにはその一言で彼が相当な資産家の出であることが分かった。彼が示した方角はミラノでも 指折りの一等地で、数世紀前に建てられた荘厳な邸宅が軒並み続いているからだ。彼がふと立ち 止まった。 「ここだよ」 そこはイタリアの典型的な老舗バールで、入口に豪華な乳白色のムラーノガラスのシャンデリア が輝いていた。先ほどミラが押し入った湿った真暗なバールとは対照的だった。店内に入ると同 時に制服のウエイターが恭しく挨拶をした。 「随分豪華なバール!こんなところでお茶するの?もっと普通のところでいいのに。コーヒー一 杯でも高そうだわ…」 「心配しなくて良いよ。好きなものをお頼み」 彼らは道沿いに張り出したガラス張りのテラス席に座った。店内が暑かったのでミラは立ち上が り、白地に菱餅のようなストライプ柄のコートを脱ぎ、少し胸元が開いた茶色い古いカシミヤの セーターにジーンズというカジュアルな格好で座りなおした。マルコはその青い氷のような瞳で ミラの行動を一挙手一投足観察している。「カメラマンってほんと目つき悪いよね」友人がミラ にこんなことを言ったことがある。そう、写真を撮る人間はものを見るとき、普通の人たちのよ うに漠然と見てるわけではない。其の観察力は鋭く、あらゆる瞬間やディテールは見逃さない。 自分も普段こんな風に人を観察しているのだろうか。ミラはその鋭い視線から眼をそらした。彼 が足を組んだ其の先に、新品のベージュの革靴が光っていた。ミラは少しがっかりした。イメー ジしていたフォトジャーナリストとは全然違う人物が、前に座っている感じがした。ウエイター がオーダーを取りに来た。 「僕はプロセッコ」 「まだ昼前なのに?!」 「君も飲めばいい」 「昼間からお酒は飲まないわ。私はカプチーノ。あれ入れて欲しいの・・えっと、シナモンって なんていうんだっけ?」 「カンネッラ」 マルコは酒を頼まなかったミラを少し恨めしそうに見た。ミラは微笑して最初の質問をした。 「貴方はミラネーゼ*なのに、ローマに住んでるのは何故?」 「ミラノが嫌いなのさ。空を見てみなよ」 彼がガラス張りの天井を指すと其の先に雲が見えた。 「灰色だ」 彼は 10 年ローマに、自分は 10 年ミラノに住んでいる。これには何か意味があるのだろうか。ミ ラは 10 年前、フィレンツエから出ることにしたとき、移転場所をローマにするかミラノにするか 天秤に載せたことを思い出した。ローマを選んでいればもっと前に彼と出会えていたのだろうか。 人は偶然をメタファーに替えて運命として認識しようとする傾向がある。そしてそれが危険であ ることを知らない。 「君は何でミラノなんかにいるんだい?何故ローマに来ないんだ?」 ウエイターがプロセッコとカプチーノを運んできた。プロセッコには、つまみのサラティーニが 添えられた。彼は奇抜が悪そうにそれを無造作に口に放り込んだ。 「お腹がすいているの?」 「ああ。僕はとても腹がすいているんだよ」 それは何か別の暗喩を含んでいるようにも聞こえた。 ミラはカプチーノをすすりながら、自分が最近どんな写真を撮ったかという話を始めた。 「ホームレス・ワールドカップって言うのがあってね、ミラノで開催されてたのでずっと写真を 撮ってたの。世界中のホームレスが慈善団体と補助金で集まってカルチェット形式の試合でトー ナメント戦をやるの。実際には社会復帰を賭けた自分自身との戦いみたいだった。普通のワール ドカップよりずっと興味深かったわ。貴方は最近どこへ行ってどんな写真を撮ったの?」 マルコはミラの話に触発されてか、ただの女として彼女を観察するのを中断し、写真を撮る同族 として興味を示した。 「見せておくれよ。持ってきてないのかい?ポートフォーリオ」 「・・・今日は持ってきてないわ。貴方とお話がしてみたかっただけだから」 「僕と話がしたかっただけ・・・」 彼はミラの言ったことをそのまま反芻した。その意図が測れないといった顔つきをした。 「僕はこの間アフガニスタンから帰ってきたんだよ。写真見るかい?」 高価な腕時計をはめた左手に最新の I-phon。その画面をミラの前に差し出した。 写真にはアフガニスタンに派遣されたイギリス軍の医療部隊が写っていた。彼らと共に 2 週間行 動を共にし、その活動を内側から取材したレポルタージュだった。 「彼らはどんな感じだったの?」 「初めは皆、感じ悪かった。でも最後は親しみやすかったよ」 ミラは、医療班と共に彼が写っている記念写真で、皆が微笑んでいるのを見てほっとした。それ はレポルタージュの経験があるミラだから分かることだった。ある特殊な集団に働きかけてレポ ルタージュの申請をし、受理された後、其の現場にカメラ一つで入っていき、彼らと行動を共に するということは簡単なことではない。人によっては写真を撮られることを拒否するだろうし、 部外者が入ってきたことで警戒されることもある。それが戦場や医療現場であればなおさらなの だ。それでも彼らの中に馴染んでいき、行動を共にし、重要な場面で臆さずシャッターを切らな ければならない。写真を通してその現実を語らなければならないからだ。 彼の写真には、ヘリで戦場に降り、撃たれた兵士を回収する医療班の姿や、緊急発進のヘリの中 で、兵士に応急措置を施している女軍医の姿も映っており、緊迫した状況下に携わったことが伝 わってくる。そんな現場で写真を撮るということは、同時にそこにいない多くの人々の眼になる ことをも意味する。写真を見た者は自分の普段の生活から引き剥がされて、一瞬その現場に居合 わせたかのような錯覚に陥る。ミラは、いつ打ち落とされるか分からない戦場を飛ぶヘリに同乗 し、カメラを持って死と隣り合わせのところで息を潜める彼の姿を想像し、目の前でプロセッコ をすすっているマルコを少し同情的な眼で見た。ギャップが大きすぎる。この仕事は、女とガラ ス張りのバールでプロセッコを飲む平和な日常と、死と恐怖が渦巻く緊迫した世界を行き来する ため、相当な精神力を必要とする。その現場が最前線であればあるほど、その世界の両極端に精 神を冒されていくジャーナリストの話は何度も聞いたことがある。彼らも鉄でできているわけで はないのだ。 ミラは一枚の写真の前で止まった。それは横たわる4歳位の美しい少女を真横から撮った写真だ った。その顔は青白く眼は静かに閉じられていて眠っているようだった。彼女は洗いざらしのよ うな白い布に優しく包まれていて、その顔の周りには小さな真紅の薔薇のような刺繍が散りばめ られていた。 「これは?」 「その少女はタリバンの爆撃で建物の下敷きになって死んだんだ。弟もいて重症だった」 次の写真でそれはもっと明らかになった。赤や黄色の華やかな花柄刺繍が施された白い布に完全 に包まれた少女の骸は、木の担架に乗せられ、悲願にくれた年寄りたちに担がれ移動していると ころだった。葬儀の様にも見える。彼女が皆に愛されていたことがその写真から伺われた。ミラ はもう一度前の写真に戻った。そしてもっとよくその写真を見た。青白い少女の顔の周りに不規 則に宝石のように散りばめられている真紅の薔薇に見えたもの、それは血痕だった。ミラはその 写真の前で数分、あるいは数時間、そして何年も過ごしたような気持ちになった。その写真と共 にミラの時間が止まった。 われに返り前を見たとき、マルコは下を向いていた。それは傷ついた男の姿だった。どんなにエ レガントな格好を装い、虚勢を張り、次から次へと女を代えても、彼が負った心の傷は癒されな いのだとミラは悟った。そして自分もそんな傷を負ったものの一人なのだということを、彼に知 ってもらいたいと思った。しかしもう時間がなかった。 彼らは席を立ち、バールを出て別れのキスをした。 「機会があったらまた会おう。僕はあと3日くらいはミラノにいるよ」 そしてその 3 日後、マルコはミラの家に来ることになる。 *イタリアでイヴの夜に行われる晩餐は基本的に魚がメインの料理となっている *イタリアの代表的な新聞社の一つ Corriere della sera の本

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