田中一光先生の記憶


私は多摩美術大学の染色デザインという特殊な学科にて、泡辻博先生がいたお陰で、伝統工芸としての染色や、プロダクト、製品としてのパターンデザインだけではなく、グラフィックデザイン、建築、空間デザイン、ファッション、現代美術など、あらゆるジャンルに眼を向けた自由な空気の中で、自分に合った方角を探れるような教育を受けたと思う。卒業する手前、多くは就職したい企業を探し始めるわけだが、泡辻先生にとても気に入られていた優等生のY君に便乗し、コネで田中一光デザイン事務所に面接に行けることになった。粟辻先生と一光先生は同期で親しい間柄だったからだ。


一光先生は当時、既にグラフィックデザイン界では重鎮で、雲の上のような存在であった。確か当時、青山の表通り角地にあった田中一行デザイン事務所の前に立ち、課題作品集やら空間デザインの模型などを背負って、まるで田舎から上京してきた輩のように、恐る恐る扉をたたいた記憶がある。「僕と違ってとても厳しい人なので、何を言われるか分からないよ。覚悟して行きなさい」と泡辻先生に脅されていたからだ。Y君が面接されている間、私は端の方で持ってきた空間デザインの模型を組み立てながら、緊張で手が震えていたのを良く覚えている。

ほぼ30年前の手記には「先生はコンクールの作品や、空間デザインをとても褒めてくださった。グラフィックへの後ろ髪引かれる思いが吹っ切れた気がする。思った通りだった。デザインはコミュニケーションだと繰り返し言っておられた。優しい方に逢った」とのみ書かれている。しかし、その時 意味が分からなかったとしても、後に少しずつ分かってくることがある。私がいつまでも忘れなかったことについて記しておこう。

実際一光先生は、もの静かで口数の少ない方だった。不必要なことは全く言わなかった。持って行ったBookには、数年間の課題作品の写真が20枚ほど入っていたが、それは大学で4x4を借りて自ら撮影し、現像し、一枚一枚自分で焼いたものだった。一光先生は黙ってぱらぱら作品集をめくっていたが、たまに手を止めては「これ、いいね」と小声で言った。しかし、私からすれば良いと言われる作品はむしろ意外なものが多かった。そして最後に「君・・・写真がいいね」と言われて私は少し面食らった記憶がある。いわゆる写真作品はそこにはなかったからだ。作品の写真を持って行ったのに、作品よりもむしろ作品を撮った写真を褒められるとは、思ってもいなかったのである。 このことを当時あえて記述していなかったのは、恐らくグラフィックデザインを仕事にしようとしてデザイン事務所に赴いた自分に、写真の方に感性があると言われたような気がして、むしろショックだったからではなかろうか?今日では先生の眼は鋭かったとしか言いようがない。

私は結局、試験を受けたどの有名デザイン企業にも就職できず、海外進出することにし、デザインから遠ざかり、現代美術や写真に傾倒していくからだ。


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