レポルタージュについて

2007-2011 覚え書き 

眼が痛い。今日見た「IL SALE DELLA TERRA」という展覧会は写真家セバスチャン・サルガドのプロジェクト「Genesi」を含む写真家としての半生とその仕事の深さを見せつけてくれたが、その一枚一枚の写真に込められた彼の、人間としての問いかけが、私の心に刺さりいちいち涙を誘ったからだ。フォトレポルタージュに携わる者として、私には彼がどんな思いでシャッターを切ったのか普通の人よりもわかる。その場所に行き、そこで起こっていることを把握し、それに巻き込まれ、怒りや悲しみ、脅威、感動、尊厳をもって撮っていった写真。それは倫理に対する問いかけでもあり、私が写真を通してたどり着いた駅だった。忘れたわけではないが、私は今そこから遠ざかったところにいたので一時的にも再び強く呼び戻されたのだった。ルワンダの大量虐殺とユーゴスラビア紛争のレポルタージュの後、彼は酷い心の病に陥ったと言葉少なげに語っていた。エチオピアでミイラのようになって目前で死んでいく子供たち、2万もの人々がルワンダで消えたのを目の当たりにして、ただ一人の人間がどうやってそれを消化できるのだろう。強靭な精神力が必要となるのだ。

私がいつも思うのは、世界で起こっていることをニュースや情報としてただ知っているということと、実際にその場にいてそれを目撃した人間の感じたものとの差は計り知れないということなのだが、レポルタージュについて理解しているおかげで、私の心はずっとカメラマンに近いので、その気持ちは痛いほどわかるつもりだ。こればかりはやってみないと分からない。そしてその経験が私たちに与えるものは、残念ながらその写真を見ている人間が得るものよりもずっと強い。それらの状況は写真に焼き付ける前に自身の眼に焼きつき、生々しく自分の中に残る。その体験と見てきた状況を仮に多くの人の前に提示できたとしても、そしてそれがこの仕事の使命だとしても、それによってその現状の中にいる人たちを直接救えるわけではないことに対するジレンマを背負っていく。強靭な精神が要求されるのだ。                     ***

私は2010年セルジョ・ラマゾッティのアフガニスタン・ワークショップ(実践ではなく一種の講義だったが)に参加して、その数ヵ月後に日本で信じられない地震災害が起こったとき、本能的に今まで習ってきたことを実行するべきだと思った。初めは通訳として現地に赴く人々、救急隊もしくはジャーナリストの役に立とうとしたが、結果的にはカメラを取り現地の状況を伝える役割を背負うことにした。現地は母国語である為フィクサーを雇う必要もなかった。この話は改めてするつもりだ。

そういえばセルジョは若くしてフォトジャーナリストになろうというときに、ある先輩にこう言われたと私に語ってくれた。「ジャーナリストになるということは、常に怒り苦しむことを意味する。その覚悟があるか?」彼は答えた。「もちろんさ」「それに、クリスマス、年末、休日、妻や子供の誕生日、といったまともな家庭生活を送ることはできないことも意味する」「僕はね、子供はいらないんだ。自分にいつ何が起こるか分からないし、子供がいる同僚のフォトジャーナリストは皆、ちっとも幸せそうじゃないんだよ」 「わたしは遠いアフリカの可愛そうな子供たちよりね、身近にいる隣のお婆さんのことのほうが気になるのよ」 ロレッラがテーブル越しに私に言った。 私は少し傷ついてこう言った。

「私は日本で生まれたけどそれは私が選んだことではなかったわ。でもそれには別に後悔してないし日本では戦争も終わっていて、私には両親がいたし家もあったし、食べ物にも困ったことは無かった。あなた方だってイタリアに生まれたのはあなた方の好き嫌いに関係なく自分の選択ではなかったはずよ。そしてこの世界の誰一人として自分の生まれる国や環境を選ぶことは出来ない。今どこかで生まれたアフリカの子供だって、水が無く飢餓に苦しみ内戦が続く場所を自分で選んで生まれたわけではないわ。そのように考えればそれが私だったかもしれないと思うことができないかしら。そうすれば彼らの運命に同情することだって、出来ると思うの」

「あなたはセルジョと同じようなことを言うのね」

「一度行ってみればわかることさ。たった一度ね」

セルジョはそういってロレッラに微笑みかけた。

2011年のバレンタインデー。フォトジャーナリスト セルジョ・ラマゾッティの家でその10年来の伴侶であるロレッラと夕食を共にしたときに、わたしは初めてそれまでぼんやり考えていたことを話した。私は彼らの写真を撮りながら 深い愛と理解が無ければこのような仕事をしている人とは暮らせないと思った。 アフガニスタン、リビア、イラク、リベリア、北朝鮮・・セルジョはもう何度も死に直面するような場所から帰ってきている。

***

私はジャーナリストではないし、そのような教育を受けてはいない。日本にいたときはジャーナリズムそのものにほとんど興味もなかった。私はただ写真に対する思い入れから、それが異質だったため目について仕方がなかった美から遠い写真分野、おのずと世界の真実を抉り出すレポルタージュに眼を向けるようになり、深入りしていった。私が勉強してきたあらゆる写真分野から大きくはみ出した、不可解な大きな獲物に見えた。それは私のそれまでの写真に対する価値観を根底からひっくり返していった。それまで意識していた著名な写真家達が霞んでいった。 日本では当時は見ることの無いものだったので理解するのに何年もかかった。知れば知るほど私にはこの仕事は無理だとも思っていた。足りないものが多すぎた。大抵は20代の若いころから始めていてジャーナリストとしての教育を受けている者、そうでなくともその心意気のようなものは持っていて、レポルタージュに関しては混沌としたこの世界から特殊な「ストーリー」を見つけ出し、調べ上げ、周到に計画し、写真を使って掘り下げていく。世界中を周る為2~3カ国の言語は当然使いこなせなければならず、体力、行動力は秀でていなければならないし、どんな危険があるところでも立ち回り、生き残らなければならない。新聞社、エージェンシーなどのバックグラウンドの必要性。男の仕事だと思っていたが、今では女性でもすばらしい仕事をする人がいる。例えばステファニャ・シンクレアーというアメリカ人の女性カメラマンがいる。私が彼女の写真を始めて見た時、度肝を抜かれた。アフガニスタンの戦場で負傷し帰ってきた兵士とその婚約者との結婚式の写真である。若い花嫁の横に立っているのは火傷のせいで溶けて完全に顔の原型が分からなくなっている花婿だった。この写真はwpp(World Press Photo) で賞を取ったものだが、彼女は戦場に行かずとも戦争の恐ろしさを強く提示した。そしてそれ以上に人間の強さを見せ付けた。あなたは自分が愛する人の顔が溶けて体に大きな不自由を抱えても変わらず愛し続けることができますか?今思えばあの写真は私に何かを強く問いかけていた。それは本当の意味での「Etica」モラル_倫理だったのかもしれない。

私が影響を受けた一人イタリアのフォトジャーナリスト フランチェスコ・ジゾラは「写真」という分野の中でレポルタージュと他の写真を区別するものはただ一つ「Etica」だと言い切った。Eticaとは倫理 道徳のことだが、その言葉で私にもはっきりとそのあり方が見えてきたように思えた。境界のようなものだ。レポルタージュは倫理を「説いている」のではなく「問いかけ」ている。必ずといっていいほど見ている私たちにそのテーマを提示し問いかけているのだ。人としてのあるべき道-道徳とも言える問いかけである。

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