トリエステノート

 イタリアで俗に言うアメリカ式キッチン(カウンターと高めの椅子があるからそう呼ばれる)に座ってアンナ・マリアの切れ目の無い話をぼんやり聞いていると、突然ヴオーという広音で私たちの内臓まで届く深い汽笛が鳴り響き、見えない戸棚の中に並ぶガラスコップが振動でチリチリと音をたてた。 「船が出る合図よ」 この街のどこにいても聞こえたであろうその汽笛は、ここから50mも歩けば見えてくる港に停泊中の巨大な豪華クルーズ船Transatlanticoから放たれたものであった。

その白い巨大な鼻口部Musoを、アパートを出てからほんの少し歩いて建物を抜けた先にいきなり出くわすことの面白さ。 そのわき腹から蟻のようにざらざらと列になって外に出てくる謎の船客達。そう、どんな人間たちがあのような客船に乗っているのか、いつも興味を持っていた。ただの金持ちか、暇人か、豪華客船に乗り世界一周するために昼夜働いた、夢を実現する輩か。 私はこの様な豪華クルーズ船を見ると美しいアルマを思い出す。2年前の万博のおりに知り合った。あるパヴィリオンで私は通訳を、彼女は受付をしていた。夜色の短めのショートボブは20年代のインテリな淑女を思い起こさせたが、彼女の物腰の柔らかさと、其の常に紅く薄い唇が少し横に引き伸ばされてできた微笑に、老若の男達が自ずと引き寄せられ彼女の周りをいつも囲んでいた。私は彼女の魅力に初め全く気がつかなかった。3週間も続くつまらない其の仕事の合間に、軽く挨拶を交わす程度だった。

ある日控え室で昼食を取っていた時、普段どんな仕事をしているかという話になった。 「私は歌手なの」 意外だったので私は興味を持った。 「どんな歌を?」 「シャンソンとか色々よ・・」 「いつもどこで歌うの?」 「船の上かしら」 彼女は一度船に乗り込むと、半年は家に帰れないという話を手短にしてくれた。 「辛くはないの?」 「辛いですって?今やってるこの仕事よりずっと良いわよ。ディナーで一度歌えばいいんだから。昼間は甲板で日に当たっているわ」

私たちのパヴィリオンに毎日のように通ってくる一人の薄汚れた身なりの年寄りがいて、彼は会場で働く誰かを引き止めては、長々と自分の日々考えていることを語って聞かせていた。私も彼に捕まり何度か同じ目にあったが、とうとう面倒くさくなって他のスタッフと同じように上手く避けることを覚えた。其の仕事の最終日、控え室での打ち上げだったか、アルマは小さな額縁に入った美しい絵画を手にしていて、皆がそれを見て羨ましがっていた。彼女はそれをある画家に貰ったと告白した。 「皆があの哀れなお爺さんの話に全然耳を傾けなくなっても、私はいつも最後まで話を聞いてあげたからよ」 彼女の不思議な魅力は太平洋の上で歌となり、魚の耳にも届くのではないかと思われた。 Trieste 2017年 9月26日 © 2017-2021 Ishii Kyoko-Nagayoshi Kei All Rights Reserved

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