ジャン・ジュネについて

私は 彼のことをすっかり忘れていた。

15歳で少年院から脱走し、乞食、泥棒、男娼をしながらヨーロッパ各地を放浪し、刑務所を転々としていた彼は、そのほとんどの作品を刑務所内で書いている。彼の語りを反芻するたびに、その細部を観察する視線や信じがたい比喩の使い方、その大胆で繊細な物言いは、私をいちいち感動させずにはいられない。彼の存在は、本当に天使が天から蹴落とされて悪魔になったかのような極端な2面性を持っている。嗚呼その想像力、形容詞の使い方、詩の分野はあまり好きではないが彼は別だ。その作品は「詩的」と呼ぶにふさわしい。

くだらない評論はやめておこう。評論などその作品の本質に比べればおまけのようなもので、私には何の意味もない。だから評論で食べている人間もわたしにとってあまり興味の対象ではない。その役割は時として必要であるかもしれないが(ちょうどサルトルが闇の中からジュネという光る宝石を見つけ出したように)しかし、サルトルの600ページに及ぶジュネ論を読む暇があったらジュネの小説を読み返したほうがいい。私が今手にしているのは「葬儀」である。

わたしは先月引っ越したばかりで軽い借金に負われている。今週中にある程度稼がないと、週末に払い込まなければならない今月の家賃もどうなるかわからない、という状況下にある。今朝もいつものように、何か単発で出来るアルバイトの広告はないか探しながら、また同じことを繰り返している自分に嫌気が差した。世の中には道徳的な面に支障があろうとも、左団扇で生活している人間が五万といる。私は食べたいものも買わずに生活を切り詰め、やっと見つけたこの憩いの場所、びわの木が見えるささやかなミラノのアパートで、初めてジュネの「泥棒日記」を読破したときの興奮を、無理に思い出そうとしている。

あの時の私の興奮は、私があの小説を、彼のことを、その孤独感を理解できたことへの何かしら隠匿すべき興奮であった。誰とも分かち合えないところが味噌であった。 Milano 2004-


© 2017-2021 Nagayoshi Kei All Rights Reserved

3 visualizzazioni

Post recenti

Mostra tutti

トリエステノート

イタリアで俗に言うアメリカ式キッチン(カウンターと高めの椅子があるからそう呼ばれる)に座ってアンナ・マリアの切れ目の無い話をぼんやり聞いていると、突然ヴオーという広音で私たちの内臓まで届く深い汽笛が鳴り響き、見えない戸棚の中に並ぶガラスコップが振動でチリチリと音をたてた。 「船が出る合図よ」 この街のどこにいても聞こえたであろうその汽笛は、ここから50mも歩けば見えてくる港に停泊中の巨大な豪華クル

イタリアの冗談は笑えない

イタリアの冗談に笑えない。 イタリア語が堪能でなかった頃は、単に言語的な問題かと思われた。母国語以外の言語を、勉強や移住などで苦学習得した者にしか分からないと思うが、レベルが高くなっていく時点で 政治的議論や医学に関する内容などよりもさらに理解するのが難しいのは、冗談や詩といった ただ言語に精通してるだけでは解読不可能な分野である。「冗談を訳すのは困難極まりない」と著名翻訳家がぼやいているのを聞い

イタリアが私を創ってくれた

イタリアにいることについて。 わたしは日本で生まれたが、それは私が選択したことではない。 しかしイタリアに来たのはわたしの選択だった。 とは言え、もともと移住する場所がイタリアでなければいけない理由など、私には無かった。当時ヨーロッパへのあこがれはあったが、ある意味でフランスでもイギリスでもよかったのだ。日本から出て別の国に住んでみたかった。別の視点からものを見てみたかった。命からがら自国から亡命