イタリアが私を創ってくれた

イタリアにいることについて。

わたしは日本で生まれたが、それは私が選択したことではない。 しかしイタリアに来たのはわたしの選択だった。

とは言え、もともと移住する場所がイタリアでなければいけない理由など、私には無かった。当時ヨーロッパへのあこがれはあったが、ある意味でフランスでもイギリスでもよかったのだ。日本から出て別の国に住んでみたかった。別の視点からものを見てみたかった。命からがら自国から亡命してくるような人たちとは 比べ物にもならないくらい単純でつまらない動機である。だからなぜイタリアに?という質問にいつもはっきりと答えられなかった。しかし今ではイタリアにいる理由をいうことができる。「イタリアが私を創ってくれたからだ」

イタリアに来た初めの頃はまともに言語ができず、容姿も助けて子ども扱いされた。それはある意味で心地よいものだったが、後にイタリアとイタリア人を知るにつれ、私はイタリアを憎み蔑みどうにかして出て、別の国に行こうと焦った時期があったことも、隠さず挙げておこう。一時フランス語を習い、フランスにでも行こうかと思っていた。が、結局ここにずっといた。今思えばそれでよかったと感じる。たとえヨーロッパ内の隣国に身を移しても、結局又そこの人種と言語と文化にまた一から面と向かわなければならない。そしてそのためにま多くの年月とエネルギーも費やさなければならないのだ。そこまでしてフランスに移住しなければいけない理由が無かったし、負け犬のようにイタリアから去るのも気が引けた。結果的にはイタリアのいいところも悪いところも、私の血肉の一部になった。そしてイタリアは私を根底から揺さぶり変えた。イタリアは今の私を創ってくれた。だから感謝している。

「イタリアが私を創ってくれた」という言葉は私が考え出したものではない。著名なイタリアのジャーナリスト エンゾ・ビアッジョの言葉で、昔父が送ってくれた「新イタリア事情」という本の結びになる言葉だった。彼はイタリアの深遠を白日の下にさらした。何事も理屈通りにならない問題だらけのイタリアを自らの手で暴露しながらも

「それでも私はイタリアが好きだ。それはイタリアが私を創ってくれるからだ」

と言った。たしかにこの国での色々な困難や経験は結果的に私を彩ってくれた。幸か不幸か私にとってイタリアは人生の一部となったのだ。 2014年11月

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