「Liberazione」(開放)解説






この作品は、ボローニャで行われていた現代美術のフィエラで、あるアーチストの通訳兼アシスタントのアルバイトをしていた期間に撮影したものである。

会場はそれぞれのギャラリーが持つブースに分かれており、各ブースには荷物置き場が設置されていた。作品設置のアシスタントをしている最中に、その物置から小さな悲鳴が聞こえた。覗いて見ると左の写真のような現場に出くわした。ので反射的にシャッターを切ったのであるが、写っている女性はギャラリーのオーナーで、上から突如落ちてきた大小のダンボールを辛うじて頭で受け取った直後の状態であった。まるでポーズをとっている様だが、実際には数秒間の出来事であった。その夜、数人で夕食後に林を散歩をしている時、ふと見上げて撮ったのが右の写真だった。この記憶は曖昧だが、この2枚組みがDitticiになるにはかなり時間がたった後である。私は左の写真がシングルとして非常に気に入っていたので、右の、何の変哲もない木々の写真には全く無関心だったのだ。

試しにDitticiとして2枚組みで現像してみたもの、やはりこの2枚の間に何の共通点も見出せなかった。だから初めタイトルは”Un pomeriggio” 「とある午後」で日常の中でたまに起こる不思議な出来事、程度のありきたりの解釈に留めていた。

2017年にこの作品を含めた3枚がPremio LYNX2016に入選した時も、このタイトルで出展した。トリエステでの受賞者発表会場で、友人の母アンナが私の横に座っていた。彼女はカタログに載っている私の写真を見て、作品の説明を聞いた後、腑に落ちない様子で「私には、左の写真では頭の上に何か重いものが乗っていて、それが右の写真でこう、上の方に向けて開放される感じを表しているように見えるわ」と言いながら、頭から天井に向けて両手を大きく伸ばし、広げ上げた。

ベクトルで言うと、左は上から下へ、右は下から上へ という方角あるいは重さを確かに示している。私は自分の作品を見直し、彼女が言っていることが的を得ているのに驚いた。そして後にタイトルを”Liberazione”「開放」に改めたのである。そしてこの事は、作品を観る者は各自のフィルターを通してそれぞれの解釈をしている事への興味を引き出した。“Essere tra le foto”の作品を、初めタイトルを見ずに観客が自分でその2枚の写真の間に存在するもの-2枚間の共通点、対比、推移、などから自分なりにタイトルを予測し、そして私がつけたタイトルと比較してもらうのが面白いと思った。なぞなぞやクイズのようだが、私のタイトルが答えではなく、”答えの一つ”であるとし、見解の違いを楽しんでもらうのも良いのではないかと考えるようになった。


だから展示の際はあらかじめタイトルを伏せておいて、観客が自分なりのタイトル(解釈)を見つけた後に、私のタイトルと比較できるようにし、観客も展示に参加できるようにしたいと考える。これで展覧会も一方通行でなくなるわけだ。


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